地域の人のしあわせを祈れること

長野市は8月末から秋祭りが始まります。
「始まる」というのは、ひとつの町でずっと秋祭りが催されているわけではなく、日を追ってさまざまな町で次々と秋祭りが行われていくのです。秋の訪れとともに毎日どこかで花火が上がったり町の要所に赤い提灯が掲げられたりする様子に、Jターンしてきた当時、何が起きているのかまったくわかりませんでしたが、心が沸き立ったのを忘れられません。生まれ育ったのは長野県小諸市の郊外の新興住宅地。小諸でも街場ではそういう行事があったのかもしれませんが、高校生までしか暮らさず、かつ郊外に家のあったわたしには祇園祭やドカンショといった大きな夏祭りしか見えてきませんでした。
  
長野市に話を戻して…たまたまひとつの祭に出かけて衝撃を受けました。なんだこのアグレッシブな花火は! こんなに観客と火が近くていいの? 火花かかってますけど! 獅子舞とか、こんなに舞うもの? この唄ってるやつなに…(木遣です)。
当時携わっていたKURAという情報誌でどうにかしてこの祭たちを紹介したいと思い、1年前から取材に入りました。後日談で掲載するのではなく、ひとりでも多くの人にリアルタイムで出かけてほしいという一心でした。分かる範囲でしたが、カメラマンのみなさんに撮影に入ってもらいました。驚いたのは、事前に祭りの情報があまりにもわからないこと。撮影に入ったカメラマンが「次はあそこであるみたいだよ」と情報を仕入れてきてくれて、数珠つなぎの撮影でした。そして翌年、KURAの巻頭企画までは育てられませんでしたが、第2企画として掲載させていただきました。
 
若干の満足感と、若干のフラストレーションを抱えて祭りへの思いはくすぶったわけですが、それから3年ほどたった独立後、住まいのある長野市上松(うえまつ)の上松神楽囃子保存会に出会いました。聞いた笛の美しかったこと! 獅子舞とは別にずっと雅楽をやりたかったわたしは、この出会いから、保存会に入らせていただくことになるのです。2011年8月のことでした。
 
そもそも、上松区の神楽は、長野市のなかでも長野市古牧地区に伝わる太神楽「五分一太神楽」の流れをくむものといわています。さらにその太神楽は、伊勢神宮につながるそうです。永正年間、飢餓に襲われた伊勢国で獅子神楽を産土神として祀り、家々を巡ったものなんだとか。伊勢神宮に参拝できない人の代わりに各地に出張したから太神楽は「代」神楽という意味もあるそうな。伊勢から江戸に伝わり、そして長野へ。各地域の人が古牧地区へ通って習い、各地に伝わったといわれています。上松地区でも嘉永2年(1849年)の資料に「神楽」の文字が見て取れます。
  
上松では戦後途絶えたときもありましたが、現在、70歳前後のごっしゃん(お師匠さん)たちの尽力で復活し、今に至ります。2015年、復活後40年の記録誌の編集をやらせていただき、地元のごっしゃんたちのお話や、若くは小学生、中学生で神楽をはじめた子どもたちの話を聞くことができました。つなげてきた先達の思いも、つなげていく若い人たちの思いも、美しくてまっすぐ。読み返すたびにうるっときます。
そして、編集室いとぐちが上松に事務所を構えることができた今年、神楽を奉納していただきました。出血大サービスの4頭奉納…木遣や謡いもやっていただき、この地で長く長く商い、暮らしていかなければと心を新たにしました。
 
ちょっと涙が出そうになるくらい感動的だったのですが、小諸から獅子舞を見にやってきた母が御幣をどうやって獅子にかんでいただくかわからず、まだまだのタイミングで口のなかにぐぐぐっと押し込んだのを見て、「だめだめ、まだまだ!」と止めに入って、なんだかもう、てんやわんやな有様。かなり焦りましたが、まあ、それもまた楽しい思い出のひとときとなりました。
  
今年は新築のお宅にたくさんうかがいました。若いご家庭もたくさん、子どもたちもたくさん。獅子舞奉納という文化を記憶に残してくれるとうれしいです。そして、この地になんの関わりもなく暮らし、営みはじめたにも関わらず、獅子舞を通じて地域のみなさんのしあわせを祈れることがなんてしあわせなことなんだろうと思うのです。(緒)